sisouron

都市を多面的に観察したい

怠惰と罪悪感のための時間マネジメント

 基本的な性質が怠惰なので特に予定が無いと家で寝っ転がってるか本を読んでるかという生活をしているのでこのままではいかんぞ……と思ってこの一週間は出来るだけ外に出るようにしていた。おかげさまで充実した一週間を過ごすことができ、睡眠時間を確保することが出来れば体調も大きく崩さずに済むのねと自信も持てたのでした。

 

 自分は怠惰な一方で時間がもったいないという気持ちも持ち合わせているので一日寝潰した後に夜になって「あー、今日も寝てるだけだったなあ」と反省して一日が終わる~みたいなことも結構多い。で、ずっとそんなのも嫌なので会う友人みんなに暇なとき何をするべきか聞いている。そうすると大体の人が「バイトして金稼いで旅行するといいよ」と。やっぱり就職すると自分の職場以外で働くことはないだろうし、長い休みを取って旅行するのも難しくなるのだろう。旅行したいし喫茶店のバイトするのもいい。一方で「暇な時間?そんなのないよ」という人も多くてどうしたらそんな活動的になれるの?と聞くことがある。

 

 大体毎日忙しい人たちには2種類あって「用事が毎日あるのでやむなく」タイプと「暇というのが怖いからとにかく動いている」タイプの人がいることが分かってきた。だいたい理系の学生とかサークルをやってる人は前者のようになる。現に自分も教職を取っていたときは週5~6講義が朝から夜まで入っていてサークルもやっていたので当時は意識していなかったがそこそこ忙しかったはずである。

 

 一方でアクティブな人の中には後のタイプの人も多く感じる。「暇な時間を送っていると罪悪感がある」とか「暇だと不安になる」という強迫観念みたいなものだろうか。自分も暇な時間をぼーっと過ごしていると「無駄な時間を過ごしてしまった」と感じて辛くなってしまう(それでもだらだらしてるんだけど)。この感情がもっと強く働いたら強迫観念で行動が制御されてしまうのだろうか。そうしたらきっと周りの人からはアクティブな人だなー!と尊敬されるのだろうが、他者から受ける羨望のイメージと本来の自分にギャップが生じてしんどくなってしまいそうだ。

 

 そんなこんなでなんだかんだ自分は自分のできる範囲で頑張るべきであって、他の人に迷惑をかけない範囲でできる限り楽しく自由に気楽に生きるのがいいのだろうと思う。まずは目の前にある案件片付けます…、頑張ります…。進捗生まなきゃね。

 

デジタル・ネイティブの僕たちは孤独に夢を見るか?

 孤独死、引きこもり、社会問題として現代表出されたとされる現象がある。

一方で「おひとりさま」「一人カフェ」など、「孤独のグルメ」などを代表されるような一人をターゲットとした商品が都市に生まれているのも事実だ。

 

 私は郊外出身だが、都市と田舎での生活というのはかなり違うものだとよく耳にする。都市は孤独だが自由で、田舎は人付き合いがある(それが時に共助となったり鎖にもなり得る)というのは上京した友人からよく聞く言葉である。ここで分かるのが孤独にも人付き合いにもプラスとマイナスの要素があるということだ。

 

 ここまでとりあえず私の考えた孤独について触れたが、タイトルにはデジタル・ネイティブと示した。現在SNSの発達によって孤独が変容したとする社会学者も多い。SNSでコミュニケーションを取ることによって実際に会うことがなくても孤独感を緩和できるという人もいる。しかしむしろ私はSNSが孤独を増幅させているという側面について話をしたい。

 

 SNSに流れてくる情報はオープンであればあるほどポジティブな投稿が占めるのは事実であろう。例えば友人と遊びに行ったことや日常生活におけるポジティブな投稿が多い。そのような投稿を見て辛くなってしまう人もいるだろう。自分の生活と友人の投稿を対比して辛くなったり何か言葉に表せない、もやっとして沈んだ孤独のようなものを感じてしまうのだろうか。

 

 SNSによって孤独感が緩和されたという考えは確かに一部は正しいかもしれない。しかしSNSによって孤独が解消されることはないのは間違いないだろう。デジタル・ネイティブの我々の感情や脳でもクラウドのように身体と分離してしまうことはない。結局我々は他人のポジティブな投稿にしんどくなって、ポジティブな投稿を共に喜べない自分にもしんどくなる。きっとSNSによってその感情を満たすことは難しい。

 

 都市やインターネットに生きる我々は孤独を解消するために、会話をしたり友人が何をやっているか確認をするためにSNSを見るが、それによって孤独が増幅することすらある。しんどくなることを知っていながら孤独を緩和するために孤独に突き進んでいく。孤独を夢見る人々が真に孤独から解放されるにはどうしたらよいのか。それとも孤独と共にどう生きるのか。そんなことを考えながらSNSに浸ってしまう自分がいる。

語りと繋がり

 先日友人と夜な夜な電話をしていた。私は夜更かしして電話をあまりしたことがないが楽しかったのでその時に話したこととか感じたことをまとめたい。

 ◼ネットが発達している現代において敢えて直接話をすること
 通信の発達によって我々のコミュニケーションはどんどん簡略化されていった。手紙は電話に、電子メールはTwitterやLINEに変わっていった。私が中高生の頃はまだコミュニケーションがメール中心だったのでLINEを導入してからはその気軽さに感動した。
 しかしそれでも私はこうして夜な夜な電話をするし人と直接話をするためにわざわざ会いに行く。伝えるのはTwitterやLINEで十分なのにお互い予定を擦り合わせて会いに行くのは何故だろう。
 
◼会話が苦手な人
 ところでコミュニケーションが苦手な人にとっては直接会って話すこととTwitterやLINEで連絡するのはどちらが楽なのだろう。
 私の好きな作家である河野裕氏の小説には話すのが苦手なキャラクターが出てくる。この人は言葉に対して重い責任感を持っていて正しい言葉を伝えるために凄く時間をかけてしまう。だから直接会って話すことが出来ず返答を何枚にも渡った手紙にして返す。相手に100%自分の意思を伝えることは出来ないからそういった気持ちは分かる。
 一方で私は直接会って話す方が楽だ。どんなに手紙にして丁寧に気持ちを伝えるにしても100%は伝わらないだろう。それなら直接会って表情やジェスチャー等といった非言語のコミュニケーションを組み合わせて言葉以外の情報量を増やした方がいいのではないかと感じる。しかもその場にいれば「これはこういう意味じゃなくてね」と説明することも出来る。
 こうやって考えるとLINEとかTwitterって気軽だけど代償として相手に伝える言葉の丁寧さや重みは薄れてしまったのかもしれない。しかもTwitterやLINEの会話には時間差が存在する。ライブ性が無いと言えるのかもしれない。
 こうして考えるとこれからもっとコミュニケーションが気軽になったとしても人と直接会って話す行為は無くならならそうだし、むしろこの気軽な世の中にわざわざ直接会って話すのは贅沢な行動になっていく気がする。もっと贅沢しよう。

字を書くということ

 世の中にフェチという言葉があるが、恐らく自分は手書きフェチだ。プレゼントを貰ったときに入ってた手紙とかは勿論、仕事場や学校等で付箋に簡単に書いて貼られたメッセージも好きだ。

 その人の書く文字というのは長年その人自身が付き合ってきたもので、その人そのものを表現していると言ってもいいかもしれない。



 先日Twitterであるフォロワーさんが素敵な言葉を呟かれていたので引用したい。(駄目だったら連絡ください、すみません)

『手書き文字の不可逆性、一種のライブ感に惹かれており、今年は手帳にはボールペンを使うことにし、かつ予定以外の誤字は修正テープなどで消さないという縛りを入れることにしたのである』



 手書きには不可逆性がある。だから書いてるときどきどきする。相手に送るメッセージなら尚更の事であって、それはまさにライブ感に満ち溢れている。

 自分の趣味に文房具集めがあって、それは文房具の機能美に惹かれているのだが、勿論字を書くことへの愛着というのもある。

 手書きのメッセージを貰えると嬉しいし、自分がその人に宛てて書くのも楽しい。その度に自分の文字を見て恥ずかしくなって、その度日ペンでも始めてみようかと思うのだけれど結局始められていない。今年こそは自分の字を好きになりたいと思ってる。今年こそは。

2018.05.15(かため)

■身近な人5人の平均が自分?

 先日twitterで「身近な5人の人の平均をしたのがあなたです」みたいなツイートを見て本当か~?と思ったのでブログを久しぶりに書いてみる。よくよく調べるとこの言葉はアメリカの起業家であるジム・ローンという人の言葉だとか。確かに人間の成長において周りの環境って凄く大事だと思うし、現に私の周りには尊敬出来る人がいて、お互いに良い影響を与えられていればいいなと思っている。

 その一方で自分の身近な5人が自分に似ているかというと結構違くない?って思う。まず人付き合いから多くを得たいと考えるとき、私なら自分と似ている人間よりも自分と異なる人間と付き合う。なぜなら似ている人よりも似ていない人の方が自分には持っていない考えを持っているので、そこから得られるものも多いのではないかと思っているからである。先日某大学の教授が「自分の考えていることに対して話し合える他分野の仲間を作りなさい」とおっしゃっていたが、まさにその通りで自分の持っていない考えを持っている人って凄く大事だと思う。

 

■で、身近な5人とは……?

 初めこの「身近な5人」というフレーズを見たとき、思い浮かんだのは仲の良い友人だった。しかしジム・ローンが言うことにはこの5人は「あなたがもっとも多くの時間をともに過ごしている」人らしい。そうしたら大多数の人々は家族を挙げるのではないかと思う。なるほど確かに家族なら自分に似てるかもしれない。しかし私の家にはペットもいないので家族を含めても5人にはならない。そうしたら誰を選べばいいんだろう。

 きっと「あなたの身近な5人は?」と聞かれて悩む人とぱっと思い浮かぶ人がいると思う。ぱっと思い浮かぶ方へ、おめでとうございます。この先はたぶん読まなくて大丈夫。

 恐らく身近という言葉には空間的/精神的という2つの距離感が含まれている。多分ここで言われる身近は精神的身近さの方である。精神的身近さってなんだろうって考えたとき「気軽さ」という言葉が頭の中に浮かんだ。

 ちょっと話はズレるが先日「夜更かしLINE」というのが欲しいねという話を友人としていた。内容としては夜になったらそのLINE上で誰かが「なんか話しない?」と振って起きてる人とただ話すだけというものなのだけれど「んー、それって個別でLINEすれば良くないか?」と言った後にLINEってなんか難しいなと思ってしまった。

 Twitterはひとりごとが主で、それに対して返信をするという気軽さがある。一方でメールはひとりごとではなくて特定の相手がいて何か用事があってお願いをしたりするときに使うことが多い。その点LINEは中途半端な位置にあって、twitterのような多くの人の目に触れるひとりごとはあまりしないが、グループというクローズドコミュニティの中では「誰か暇?」みたいな気軽な誘いはしやすい。つまり何かメールで頼むような用事が無いと使ってはいけないといった感じでは無さそうである。しかし用事が無いのに相手にLINEをするというのは中々難しそうだ。

 話がかなり脱線してしまったので元に戻そう。身近な人って「用事とかがなくても気軽に連絡しあえる人」の事ではないだろうか。私は誰かと連絡をするとなると仕事のことだとか、なにかと行きたいところとか理由をつけて遊びに誘ったりしてしまうが、その人と会うということを理由にしたっていいはずだ。それに気軽な話をしあえる人って大事だ。そう思うとなにか取り留めのない話って実は価値があって、そういう話を共有できる人は尊いのではないかって気がする。お風呂上りにコーラを飲みながらこれを書いてる、人付き合いってもう少し気軽に考えてもよさそうだ。

 

 

TOEFL体験記

TOEFL受けに行きました。参考になるサイトは沢山あるので面白かったことをまとめておきます。

【試験の前段階】
半年前くらいから受験の予約ができます。
人気の会場(会場によって設備が違うらしい)というのがあって、そこはかなり早くのうちから埋まるみたいです。
今回は1か月前に予約したらかなり埋まってました。ただ自宅から電車で1本だし結構近い方なのでまあアリだったかなと。ギリギリに予約すると宇都宮しか空いてなくて宇都宮に飛ばされる……ということもあるらしいので何事も早めに、が大切ですね。
元々TOEFLはやばいということを知っていたので事前に調べていたおかげで狼狽えずに済んだけど、普通の試験と同じノリで行くときっと衝撃を受けると思います。

まず本人確認にパスポートが必須、振り込みがドル払いで自分のクレカが必須(しかもUS$230もする、クレカ止まりました)というところから面白いんだけど、試験会場で私は不正をしませんという英文を書き、宣誓書を朗読させられ、写真を撮られ、金属探知機にかけられます。そしてテストしてるところは全て上から監視カメラで監視されてます。これ本当にテストか?

あとこれは余談ですがアメリカの本部から厳しい指導があるようで「眼鏡をしてるとカメラつきかどうか確かめられる」「不思議な形の耳栓はアンテナの可能性があるから持ち込み禁止」等。もう何でもありやん、面白すぎる。
ちなみにテスト会場はハンカチすら持ち込み禁止でポケットは空にしないといけません。ここまで来ると流石におかしくない??と思うんだけどどうでしょうか。

勿論こんな身体検査があるのでテストまでに時間がかかります。例えばテスト開始が10時で、9時半に行くと50分くらい待たされて10:20開始くらいになります。あれ?10時開始なのに10:20開始とは……?と思われた方もいるでしょう。そうなんです。

テスト開始時間が決まってるのに同時に始まらないんです。だからテストやってるのに宣誓書を読んでる声が聞こえたり、人が入ってきたりします。本当にカオス。

そしてテストが始まる前にマイクチェックをやるんですけど、それで一応「Discribe your city」みたいな指示が出るんだけどマイクチェックなので何を話してもいいらしく、みんなずっと「I live in Tokyo.」と連呼してます、ほんとカオス。

【テスト】
Reading(80分・約800字×4パッセージ)
→時間足りへん、頭お菓子になるで🍬┌(┌ ³ω³ )┐🍬

Listening(60分・5分の会話・講義×3が2セット)
→早口すぎる。教授氏~~生徒のためにゆっくり話してくれ~~、それと謎の皮肉とかジョーク言うな~~

[休憩](10分)
→チョコ食べて水分補給、それと身体を動かす。奇怪な動きをしていたのは僕だけでした。

Speaking(6問)
文章読む→講義聞く→要約話したり自分の意見
何か講義で聴こえたことをそれっぽく話す。日本語ですら難しいのに自分でも何いってるか分からなくなるよ。

Writing(20分1題+30分1題)
①文章読む→講義聞く→書く
②出された質問を書く
30分で英文300文字かなりしんどい。あとパソコンがアレでカーソルが飛んでしまったのでミスタイプしてしまったかも、負けました。

これで合計4時間半くらいです。9時30分に来て終わったのが14時半くらいだったかな、本当にお疲れさまでした。

あまりに厳重で飛行場とか国境管理局の方が緩くて笑える。パソコンが並んでるところで延々と英語に漬かり、時計も持ち込み禁止でなので時間感覚も無くなります。試験が終わって外界に出ると時間が経っててちょっとした浦島太郎体験が楽しめます。

TOEFLは試験としては最悪だけどアトラクションとしては最高なのでみなさんも是非何らかの罰ゲームにでもやってみてください。私はもうやりたくないです

2018年3月23日~2018年4月1日

3月23日

 先日地元の大好きなパティスリーに行った。このお店はコンフィチュールがスペシャリテでバレンタインのお返しはコンフィチュールにしようと私はずっと並べられた瓶の前で悩んでいた。
 
 自分より少し若く見える女性が「コンフィチュールは試食も出来ますので」と声を掛けてくれたのでお言葉に甘えて試食させてもらおうと思ったが名前がどれもお洒落すぎて何を試食すれば良いのかが分からない。お店の人に「どれがおすすめですかね……?」と言うと「お客様ですと桃とジャスミンいかがでしょうか」と勧めてくれたので「それでお願いします」と言う。桃とジャスミンは想像つかなかったが、桃の甘さとその後に残るジャスミンの華やかな香りは凄く上品でよかった。

私はお店の人とコミュニケーションを取るのが好きだ。言葉が無くても成立するコミュニケーションもある。例えば喫茶店に行くとマスターが棚に沢山あるコーヒーカップの中からその人に合ったカップを選んでくれるとか。お店の人という初対面で、もしかしたらもう二度と会わない人が自分のために「この人のイメージならこの味かなあ」とか「この人はこのカップが似合いそうだな」って考えてくれるのが嬉しい。

 相手が自分に対してどう思ってるかって凄く大事なんだけど、自分には分からない。自分は自分そのものを見ることは出来なくて、鏡に写った姿しか見れないのと似ている。喫茶店でそんなことを考えながら渡されたコーヒーカップの形や彩飾を見てちょっと嬉しくなる。

3月24日

 今日は仲間の誕生日だったので誕生日祝いも兼ねて花見をしに行った。花見楽しいね。人混みは大の苦手なんだけど今日は全く平気だった。また来年も行きたい。それとプレゼントはやっぱり使ってもらえると嬉しいね。

3月25日

 先日twitterで流れていたこのツイート(https://twitter.com/sugary_pixie/status/969173767841656835)を考えてた。確かに相手が自分のことを思っている度合いと自分が相手のことを思っている度合いに違いが生じるのは当然で、時にそれは悲劇(?)を生む。自論であるが友達かどうか悩むくらいならそれは友達であると思った方が良い。悩むくらいの関係なら相手も自分のことを友達と思ってくれてる気がする。一番の問題はその度合いの違いによる副次効果の方だと思う。

 友人の親密さによってその人に対しての話し方とか行動とかが変わる。例えば親密さの解釈が違うと「なんかこの人馴れ馴れしくない?」ということが起こり得る。距離感の違いと言えば良いのだろうか。自分はなんとなくこの距離感の違いが怖くて仲良くなりたくても無意識に距離を置こうとしてしまうことがある、難しいね。

3月26日

 卒業式後、お世話になった教授との懇親会が印象的だった。「君たちは大学で色んなことを学んだけど卒業してからが本当の学びだよ」「自分の卒業した専攻を誇りに持て」と言われ卒業することを再び認識しては悲しくなってしまった。
 教授は最後に「君たちの人生だから好きなことをしなさい」と言ってくれた。教授は好きなことを突き詰めて生きてきた人たちだから重いメッセージに感じた。 

 好きなことで生きている人を甘えだとか馬鹿にする人がいた。夢を語る人に「どうせ無理だよ」という人もいた。好きなことをして生きるのって凄く大変だし勇気のいることだと思う。それを馬鹿にすることなんて誰にも出来ないって思う。むしろ好きなことを諦めることの方が楽だ。好きなことを追いかけている限りはその人はかっこいいし強い、恥ずかしいことではないしむしろ誇ってもいい。


3月27日

 最近あまり見かけない先生がいた。在籍はしているのに担当している講義も無くなりゼミ生ではなかったが心配をしていた。
 
 その先生は若手で期待の新人研究者といった人だった。その先生も懇親会に出席してくれたのだが、はじめ見たとき見た目の違いに誰だか気づかないほどだった。少し痩せて頭はスキンヘッドになっていたからだ。おそらく抗がん剤の副作用だろうか。若くして期待の新人とされていた先生が病気になってしまったということにショック受け、誰しも平等に病気は訪れるんだなと改めて思った。

3月28日
 「明日死ぬかのように生きろ」という言葉がある。自分は明日死んでも後悔しないように生きなさいという意味かと思ったが違う捉え方をする人もいるらしい。「どんなに頑張っても死が近づいていたら意味がないよ」と。

 死とは何か。人の心臓が停止すればそれで死であるということも出来るが何となくしっくり来ない。死んだ人間は親族や身近な人の中で生き続けるからだ。それなら「どんなに頑張っても死んだら意味無いよ」とは思えない気がする。これはどう死ぬかという話にも繋がるが死んだ後も人の中で生き続けるとすれば、死を理由に努力を止めるのは何か違う気がする。

 突然余命一年を宣告された患者が言った。「死が近づいてようやく生きる素晴らしさに気がついた。人生の中で今が一番生きていると実感している」と。
 余命宣告をされていない人も突然亡くなるかもしれないし事故で死ぬかもしれない。だから私たちは死の準備をすることは出来ない。
 自分はそんなことを考えながら今日も生きている。何となく安心感のない吊り橋を渡りながら、その先にどんな人や道が待ち受けているのか不安と期待が混ざるも幸い期待の方が勝っている。

3月31日
 バンド仲間との卒業旅行から帰宅。楽しすぎて燃え尽きてしまった。燃え尽きてる場合じゃないんだけど楽しいことがあるといつもこういう反動が襲ってくる。
 こういう時本当に自分は不便だなあって思う。遊んでると凄く楽しいけど、それが終わると襲ってくる孤独やら心にぽっかり空いたような空洞、祭りの後症候群とでも名付けたい。
「おいお前!遊んだんだから少しは仕事しろよ!」と自分に問い掛けるけど全く動かない。どうしようもない。
 どうすればいいんだろう。早くこういうのから解放されたい。

 4月1日
 
 新学期になってしまった。この一年を振り替えると本当にいい一年だったが、もっとこうしていればよかったなと思うことがあまりに多すぎる。人生一度目だもんね、あまり自分を責めても仕方ないよねと思ったので、反省というよりは今年度上手く出来るような課題にしたいと思う。

 良かったと思ったことだけでも挙げるとすれば、この一年で人前で食事をする恐怖心が減って旅行も楽しめるようになったなあということでこの成長は自分の中ではかなり大きい。多分周りの友人に恵まれているお陰で改善したんだと思う。そう思うと本当に感謝しかない。
  
 さて今年度もどうなることやら自分でも分からないけど、やりたいことをやるために頑張ろうと思う。とにかく自分の出来ることをする中で人助けをしたいし無理って時は自分から助けを求められるようになりたい。何はともあれ自分の好きをやるために努力を惜しまない一年になればいいなと思う。