sisouron

都市を多面的に観察したい

2018年3月23日~2018年4月1日

3月23日

 先日地元の大好きなパティスリーに行った。このお店はコンフィチュールがスペシャリテでバレンタインのお返しはコンフィチュールにしようと私はずっと並べられた瓶の前で悩んでいた。
 
 自分より少し若く見える女性が「コンフィチュールは試食も出来ますので」と声を掛けてくれたのでお言葉に甘えて試食させてもらおうと思ったが名前がどれもお洒落すぎて何を試食すれば良いのかが分からない。お店の人に「どれがおすすめですかね……?」と言うと「お客様ですと桃とジャスミンいかがでしょうか」と勧めてくれたので「それでお願いします」と言う。桃とジャスミンは想像つかなかったが、桃の甘さとその後に残るジャスミンの華やかな香りは凄く上品でよかった。

私はお店の人とコミュニケーションを取るのが好きだ。言葉が無くても成立するコミュニケーションもある。例えば喫茶店に行くとマスターが棚に沢山あるコーヒーカップの中からその人に合ったカップを選んでくれるとか。お店の人という初対面で、もしかしたらもう二度と会わない人が自分のために「この人のイメージならこの味かなあ」とか「この人はこのカップが似合いそうだな」って考えてくれるのが嬉しい。

 相手が自分に対してどう思ってるかって凄く大事なんだけど、自分には分からない。自分は自分そのものを見ることは出来なくて、鏡に写った姿しか見れないのと似ている。喫茶店でそんなことを考えながら渡されたコーヒーカップの形や彩飾を見てちょっと嬉しくなる。

3月24日

 今日は仲間の誕生日だったので誕生日祝いも兼ねて花見をしに行った。花見楽しいね。人混みは大の苦手なんだけど今日は全く平気だった。また来年も行きたい。それとプレゼントはやっぱり使ってもらえると嬉しいね。

3月25日

 先日twitterで流れていたこのツイート(https://twitter.com/sugary_pixie/status/969173767841656835)を考えてた。確かに相手が自分のことを思っている度合いと自分が相手のことを思っている度合いに違いが生じるのは当然で、時にそれは悲劇(?)を生む。自論であるが友達かどうか悩むくらいならそれは友達であると思った方が良い。悩むくらいの関係なら相手も自分のことを友達と思ってくれてる気がする。一番の問題はその度合いの違いによる副次効果の方だと思う。

 友人の親密さによってその人に対しての話し方とか行動とかが変わる。例えば親密さの解釈が違うと「なんかこの人馴れ馴れしくない?」ということが起こり得る。距離感の違いと言えば良いのだろうか。自分はなんとなくこの距離感の違いが怖くて仲良くなりたくても無意識に距離を置こうとしてしまうことがある、難しいね。

3月26日

 卒業式後、お世話になった教授との懇親会が印象的だった。「君たちは大学で色んなことを学んだけど卒業してからが本当の学びだよ」「自分の卒業した専攻を誇りに持て」と言われ卒業することを再び認識しては悲しくなってしまった。
 教授は最後に「君たちの人生だから好きなことをしなさい」と言ってくれた。教授は好きなことを突き詰めて生きてきた人たちだから重いメッセージに感じた。 

 好きなことで生きている人を甘えだとか馬鹿にする人がいた。夢を語る人に「どうせ無理だよ」という人もいた。好きなことをして生きるのって凄く大変だし勇気のいることだと思う。それを馬鹿にすることなんて誰にも出来ないって思う。むしろ好きなことを諦めることの方が楽だ。好きなことを追いかけている限りはその人はかっこいいし強い、恥ずかしいことではないしむしろ誇ってもいい。


3月27日

 最近あまり見かけない先生がいた。在籍はしているのに担当している講義も無くなりゼミ生ではなかったが心配をしていた。
 
 その先生は若手で期待の新人研究者といった人だった。その先生も懇親会に出席してくれたのだが、はじめ見たとき見た目の違いに誰だか気づかないほどだった。少し痩せて頭はスキンヘッドになっていたからだ。おそらく抗がん剤の副作用だろうか。若くして期待の新人とされていた先生が病気になってしまったということにショック受け、誰しも平等に病気は訪れるんだなと改めて思った。

3月28日
 「明日死ぬかのように生きろ」という言葉がある。自分は明日死んでも後悔しないように生きなさいという意味かと思ったが違う捉え方をする人もいるらしい。「どんなに頑張っても死が近づいていたら意味がないよ」と。

 死とは何か。人の心臓が停止すればそれで死であるということも出来るが何となくしっくり来ない。死んだ人間は親族や身近な人の中で生き続けるからだ。それなら「どんなに頑張っても死んだら意味無いよ」とは思えない気がする。これはどう死ぬかという話にも繋がるが死んだ後も人の中で生き続けるとすれば、死を理由に努力を止めるのは何か違う気がする。

 突然余命一年を宣告された患者が言った。「死が近づいてようやく生きる素晴らしさに気がついた。人生の中で今が一番生きていると実感している」と。
 余命宣告をされていない人も突然亡くなるかもしれないし事故で死ぬかもしれない。だから私たちは死の準備をすることは出来ない。
 自分はそんなことを考えながら今日も生きている。何となく安心感のない吊り橋を渡りながら、その先にどんな人や道が待ち受けているのか不安と期待が混ざるも幸い期待の方が勝っている。

3月31日
 バンド仲間との卒業旅行から帰宅。楽しすぎて燃え尽きてしまった。燃え尽きてる場合じゃないんだけど楽しいことがあるといつもこういう反動が襲ってくる。
 こういう時本当に自分は不便だなあって思う。遊んでると凄く楽しいけど、それが終わると襲ってくる孤独やら心にぽっかり空いたような空洞、祭りの後症候群とでも名付けたい。
「おいお前!遊んだんだから少しは仕事しろよ!」と自分に問い掛けるけど全く動かない。どうしようもない。
 どうすればいいんだろう。早くこういうのから解放されたい。

 4月1日
 
 新学期になってしまった。この一年を振り替えると本当にいい一年だったが、もっとこうしていればよかったなと思うことがあまりに多すぎる。人生一度目だもんね、あまり自分を責めても仕方ないよねと思ったので、反省というよりは今年度上手く出来るような課題にしたいと思う。

 良かったと思ったことだけでも挙げるとすれば、この一年で人前で食事をする恐怖心が減って旅行も楽しめるようになったなあということでこの成長は自分の中ではかなり大きい。多分周りの友人に恵まれているお陰で改善したんだと思う。そう思うと本当に感謝しかない。
  
 さて今年度もどうなることやら自分でも分からないけど、やりたいことをやるために頑張ろうと思う。とにかく自分の出来ることをする中で人助けをしたいし無理って時は自分から助けを求められるようになりたい。何はともあれ自分の好きをやるために努力を惜しまない一年になればいいなと思う。