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都市を多面的に観察したい

生存バイアスということ

「生存バイアス」という言葉から解放されたのでこの文章を書くことにした。

 

私はこの一年あまり、大学院入試が終われば就活に追われる、そんな院生生活を送っていた。

 

私は院試期、ネットに流れるいろいろな院試体験記を読み漁り、「大学院浪人したけど、頑張って次の年に受かりました!」とか「大変だけどなんとかなった!」みたいなのを読んではしんどくなっていた。その時わたしは「人の成功体験は誰も救わない」ことに気付いた。

 

訳あって私が大学院に進学しようと決めたのは大学の卒業後であったので、母校の推薦もなく、無職として院試勉強をしなくてはいけないある種極限的に追い詰められた状態だった。そんな中「人の失敗談」やら「暗い曲」に救いを求めようとしてしまったもので、人の「合格体験記」には「また生存バイアスだ」と切り捨てていった。大学院の入試は専門的で、専攻や研究室によっては倍率も3~4倍くらいある。だから成功した人の裏にはそれ以上の失敗した人がいるはずなのだ。それなのにネット上では「成功体験」しか語られない。そんなことで私は皮肉を込めて「また生存バイアスか」と吐き捨てていたのである。

 

しかしわたしはその後半年くらいの試験勉強を経て、志望する大学院に合格する。もちろん合格したことはうれしかったが、過去の自分が妬んでいた「生存者」になってしまったことに苦しめられた。だからこの文章を書くにあたっても「生存者」に立ってしまった自分が書いてもいいのかと何度も書いては消してを繰り返していた。

 

それでもこの文章を書く気になったきっかけは就活である。私は研究することも好きだったので博士課程に行こうかM1の夏くらいまでは考えていた。なのでM1の夏は先輩から勧められた長期インターン1つのみの参加で、それ以外は本を読んだり就活のことは何も考えず過ごしていた。

 

そんな気持ちが変わったのはM1の秋~冬くらいだろうか。同期が外資系の内定を貰い始めたり、スーツ姿が目立ち始めたとき、漠然とした焦りや不安を感じたのである。あの大学を卒業して無職になったときに感じた、周りの仕事の愚痴までもが妬ましく感じたあの感覚が繰り返し思い出され、自分はもう働かないと耐えられないだろうと思い始めたのである。

それでも当時は業界も会社も詳しくなかったため、合同説明会だとか交流会みたいなところに参加して「とりあえず就活してますよ」と自己暗示することで安心感を持とうとしていた気がする。そんなこんなだったのでM1の冬のインターンもほとんど落ち、でもまあそれなりに学歴もあるし何とかなるだろうと思っていた。

 

そして私はその後50社以上に本エントリーをすることになる(ちなみに理系院生の平均エントリーは7,8社らしい)。インターンも含めればESは70~80枚は書いてて、総文字数にすれば卒業論文を超えそうなくらいの文字数を書いていたと思う。結果として45社に落とされ、学歴もあるのに準備だってしてるのに、OB訪問もしてるのに、相談もしてるのになんでこんなに落ちるのだろうと7月半ばにはじめて内定が出るまで半年以上悩まされ続けた。

 

しかしその一方でようやく生存バイアスから解放されたと思った。「就活のアドバイス」を聞いて改善し、それでもなお45社に祈られた後、ようやく内定が出た。ここまで頑張ってきて、それでもなお自分のことを「生存者側」だと思わなくてもいいのではないかとようやく自分を受け入れることができたと思えたのである。

 

「45社落とされたけど、内定貰えたからあなたも大丈夫」なんて言うつもりはない。それこそ「生存バイアスだ」と指摘されてしまう言動だからだ。「私も受かったからなんとかなるよ」という言葉は一見優しい言葉に見えて誰も救ってはくれない。「自分を自分として受け入れる」ことができるように行動すること、そうやって積み重ねていく日々だけが自分を救ってくれたのではないかと今になって思う。

「献血におけるインセンティブと利他的行動に関する考察」

はじめに

我々は利己的であるにもかかわらず、献血は見返りがない、もしくは飲み物などのすこしのインセンティブしか与えられないことが多いのにも関わらず献血を行う人は多い。なぜ利己的であるのに、利他的な行動である献血の制度が成立するのか。また良しとされる利他的行動であるが、本当に利己的行動と比較して良いものなのか、日本の血液事業の歴史を辿りながら考察したい。

 

献血事業の歴史
1952年以前、日本では患者の寝ているベッドの隣に血液提供者を寝かせて、提供者から注射器などに採取した血液を直ちに輸血する「まくら元輸血」を行っていた。しかし血液の安全性が問題となり米国赤十字社の指導と援助を受け、保存血液の製造が始まった。そして日本の現在の献血制度が始まったのは1952年の「日本赤十字社東京血液銀行業務所」の開業である。日本赤十字社は現在と同様である無償で血液を提供してもらう献血を健康的な人に呼び掛けを行っていた。しかし当時は経済的不況という背景もあり、血液を買う民間の商業血液銀行の存在があった。血液を売ることによって生活費を得ようと、1か月に何度も売血してしまう人が発生し、血液の質の低下や輸血後肝炎などが問題となった。また自分の生命ともいえる血液を切り売りしたり買い入れたりすること自体が人身売買であるという批判も起こり「売買血追放運動」が起こった。1964年には「献血の推進について」という閣議決定が行われ「国及び地方公共団体による献血思想の普及と献血の組織化を図」り、「日本赤十字社または地方公共団体による献血受入れ体制の整備を推進」することになった。そして1968年には民間血液銀行の保存血液の製造中止により、売買血はほとんど姿を消した。この血液事業の歴史から読み取れることとして、現在の献血の制度の導入のきっかけに「血液の質の低下を抑える」だけでなく「人身売買という観点からの批判」があったということがわかる。今井は世界の血液事業から「従来、献血に際してはサンクション(禁止し、法的制裁を行う)が広く用いられてきており、今日、輸血肝炎をはじめとする感染症の蔓延や薬害エイズ事件などで、売血で得られた血液の危険性が広く認識されるようになったことで、各国とも無償献血一本化を目指した血液政策を進展させている。」としており、日本の献血の流れは異例であるとしている。売買血追放運動が盛んになったことによって売買血が良くないものという意識が高まり、一方で献血という行為に対する社会的な評価が高まっていったことが推測される。


利他的な行動におけるインセンティブ
他人の福祉を第一義とする個人としてのknightとよばれるふるまいがある。患者や生徒、依頼者など他人のニーズや欲求を自分たちのknave(利己的な能力)よりも上位に置く人たちである。これらの人々の行動の源には純粋な利他主義と不純な利他主義があるとされている。純粋な利他主義は「他人の苦しみから解放されたいという願望」であり、不純な利他主義は「他の人の苦しみに苦悩し、自分自身で救済の行為を行うことを望む」「職業上の評価または評判を求めることを望む」というものである。これらは他者に対して行動をするという点で利他的であるが、動機は「他人の苦しみから解放されたい」「自分自身で救済の行為を行うことを望む」「評判を求める」など自分の感情や世間体にとってプラスになることを求めていることが共通点としてあげられ、利己的動機であるともいえる。身分の高い者が身分に応じて果たさなくてはいけない社会的責務があるといった道徳観を示す言葉として「ノブレス・オブリージュ」がある。由来はフランスのことわざで「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ」を意味する。中世ヨーロッパのキリスト教世界においても、裕福であることは罪であり、貧者は富を施すことのできる存在であった。つまり利他的な行動は持てる者が持たざる者に対して行う施しであり、ここには相互的な利益が生じているのである。

 

日本の血液事業の現状について
先ほど血液の安全性という観点で無償輸血が推進されているとあったが、今井は血液の安全性を保障する方法として、安全な血液を高値で取引するという方法も考えることが出来るとしている。「献血者にインセンティブを与えることは、献血者の献血に対する動機付けを高め、献血者の増加と供血量の増大に繋がりうるだけでなく、献血者へのインセンティブは、血液を購入する事業者の意識変革をもたらしうる」とし、また「対価を払って血液を「買う」以上、品質の悪い血液を買わされないよう、今以上に献血者および血液の品質検査に力を入れるようになり、その結果、ウイルス不活化とウイルス保有者検出の技術が向上し、それが安全性の確保に繋がるということも考えられる」とし、献血者に対するインセンティブの効果を示している。また「対価を受け取る以上、そこには責任が生じる。献血者は対価を受け取る権利を有すると共に、献血に際して虚偽の申告をしないこと、検査目的で献血しないこと、自分の血液の安全性について責任を持っことが義務付けられる。」とし、献血者に対するサンクションの効果も示している。日本は献血において有償採血を禁止しているが、血液製剤の多くを外国からの輸入に頼っている現状がある。そのため、現実の献血制度においては倫理観のみを理由に売買血を禁止することは非現実的であることがわかる。Knightとしてのふるまいは求められがちであるが、それだけではなく責任の所在という点においては市場のシステムの導入も考えられるであろう。

 

参考文献
日本赤十字社大阪府赤十字血液センター「血液事業の歴史」
https://www.bs.jrc.or.jp/kk/osaka/special/m6_01_history.html(2020年1月25日閲覧)
今井竜也「献血におけるサンクションとインセンティブ—血液政策・供血システム転換の可能性と必要性」

集合行為ジレンマの解決――非合理の合理性を越えて

  集団生活をよりよくするためには、全員で話し合い取り決めをするのがよいという考えは一般的であるが、現実として集団行為のなかで荒廃している地域がある。その際に用いられるモデルとして「共有地の悲劇」と「囚人のジレンマ」があげられる。共有地は自身の所有地ではないため他人の家畜が草を食べることを制限できず、誰もが自分が損を被らないようにより多くの家畜を放牧しようとする。そのことにより過放牧が生じ、農民全員の共有資源が失われてしまう(共有地の悲劇)。また囚人のジレンマでは二人の囚人が別々の独房に入れられ、警察に自分がやったか、相手がやったか問われる。この際に二人とも相手がやったと言わないなら、二人とも軽い罰となる。しかし別々の独房に入れられ協力ができない場合、相手がどう問うた場合でも相手を裏切り自分は無実と言ったほうが賢明であるというものである。


 二つのモデルで共通して言えることは「互いに相手が裏切るのではないか」と考えていることと、「自分の利益のみを追い求める」ことによってフリーライダー(ただ乗り)をしてしまうということである。他者を犠牲にすることなく厚生を改善する余地が、誰にとってもなくなっている状態をパレート最適と言うが、つまり、囚人のジレンマ共有地の悲劇パレート最適ではない状態と言える。競争市場均衡では人々の欲求にあわせて無駄なく配分される。(「厚生経済学の第1基本定理」)しかし、先ほどの共有地や景観というような環境は特定の人を排除することが出来ない(排除不可能性)、分けることのできない(非分割性)公共財は、市場経済で供給されることはない。その際どのようにしてこれらの集合行為ジレンマを解決することができるだろうか。


 集合行為を解決するには、個人の自由な行動を他者に影響を及ぼさない範囲に制限しなければならない。集合行為の解決策としてホッブズが提唱した、リバイアサンによる統制(第三者による執行)が考えられる。しかし、その第三者が当事者双方と利害関係になくとも、信頼できるとは限らない。強大な権力を持ったリバイアサンが自分の利益のために裏切ることも考えられる。また、トップダウンの解決が難しいとすれば、市場による解決も考えられる。その例として排出権取引があげられるが、排出枠などの設定の困難性や、取引の不参加など、さまざまな国の思惑が交錯する国際取引ではより一層公共財の財産権による解決は困難であると明らかになってくる。
 
 他者と協力することで公共財を守ることが出来るのに、各自が自らの利益を追求してしまうのは一見すると非合理に見える。しかし、そこには他者への信頼の欠如のような不安定性が背景にあり、それぞれの各自は合理的に動いているということができる。また行動経済学の双曲割引という観点からも持続性よりも目先の利益に飛びついてしまうことは、動物の基本的特性であり合理的な行為といえるのではないか。そのような「非合理の合理性」はどのようにすれば越えられるのだろうか。


 組織心理学者のAdam Grantは著書である『Give and Take』の中で人々をgiver、matcher、takerの3分類し、一番社会的に成功しているのも、失敗しているのもgiverであることを発見した。成功しているgiverと失敗しているgiverの違いは自己犠牲的であるかどうかであり、「情けは人のためならず」という言葉もあるが、自己犠牲にならない範囲で相手に対して与えることのできる「他者志向のgiver」になれば、敵を作ることなく他者とかかわりを持つことができ、それが成功に導くという。

 また唐沢かおりは他者の心の認知という側面に焦点を当て、道徳的配慮の行為性を理性派と感情派に整理している。理性派であるカントは「理性や人間独自の合理性、道徳的自律、普遍的な道徳原理と整合してふるまえる自己統制力が配慮を成り立たせている」とし、感情派のヒュームは「道徳的な善悪の判断は、その判断を行う人の心にある感情によるものであること、またそのような感情経験をもたらすものとして、他者への共感が重要な役割を持つ」としている。

 集合行為ジレンマの原因には他者に対する信頼関係の欠如があるということを先に述べた。心理学では「根本的な帰属の誤り」というバイアスがあるとされている。他者の行動の原因を内的(その人が原因)なものに求め、状況要因を無視してしまうがち」というバイアスがわれわれには備わっている。他者に対する不信を取り除くことが集合行為ジレンマの根本的な解決策であり、そのためには他者の状況要因を見落とさないようにする必要があるのではないだろうか。他者とのコミュニケーションを通して、他者の状況要因を理解することで他者への共感が起こり、道徳的な行為へとつながっていく。それによって自分の利益のみを追求する「非合理の合理性」を越えて、他者とともに作り上げる社会的な合理性へと進んでいけるのではないだろうか。

 

参考文献
 坂野達郎「集合行為ジレンマと市民的公共性」 金子勇編 『計画化と公共性』 ミネルヴァ書房
 R.D.Putnam "Making Democracy Work" (河田潤一訳 「哲学する民主主義」)
 Adam Grant『Give and Take: A Revolutionary Approach to Success』(楠木建訳『GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代』)
 岸政彦『マンゴーと手榴弾
 唐沢かおり『なぜ心を読みすぎるのか』

2018年あったことやなかったこと

1月~3月

 卒論は12月末に執筆し終えていたので1月始めの提出を待っていたが、結局書き終えても提出するまで落ち着くことは無かった。パソコンが壊れるのを予想していろんなところにデータを保存し、提出の日には中央線が人身事故で止まるのを予想して間に合う2時間くらい前の電車に乗った気がする。

 しかし卒論を出しても通るかどうかは別であるし、2月に面接試験も控えていたので結局最後の最後、卒業式のパンフレットが届く3月になるまでそわそわしていた。

 結果としてなんとか卒論も受理され、教員免許も手に入れたのだが、母校の非常勤ポストに空きが出ず、職のアテも無くなったので、大学院行こうかなあと思っていたのがこの時期。

 

4月~9月

 大学院の入試はわからないことが多く、しかも学部とは違う専門に進むことにしたので何をするべきかわからん…となる。大学生のころはとりあえず大学に行けば友人がいたので話す相手もいたが、学生ではなくなったので親以外の人と話すことがほとんど無くなる。同期が働いているのを見て働けるのっていいな…とまで思ったりした(就職活動をしなかった自分が悪いのだが)。

 おそらくその頃に出会ったのが岸政彦さんの『断片的なものの社会学』で、自分がいかに狭い視野だったのか、さまざまな生き方がありながら自ら狭い世界に閉じこもっていたのかということに気づく。岸さんの本を読み漁りながら岸さんも私と同じく大学と大学院までの間にブランクがあることを知り、自分とまったく境遇は違えど同じ状態であったということに親近感を覚える。そしてそんな同じ状態であった人が現在綺麗な文章を書き、社会学の第一線で活躍されているのを見てすごくはげまされた時期だった。社会学に興味を持ち、社会学系の大学院を受験したのは岸さんの影響が強い。

 

 10月~

 9月末に大学院から合格通知が届き、ようやく大学を卒業してから半年間のおそらく今までの人生で一番苦しかった時期から解放される。来年の春から職業の欄に「無職」と書かなくていいのかとか、とりあえず自分の居場所が与えられたことで落ち着きを取り戻す事が出来た。

 この半年間で思ったのは結局問題に当たった時は自分自身の力で解決しなければそのままであるということだった。時間は解決してはくれなかった。

 ただし自分自身の力で解決するというのはけっして自分だけで解決するということではない。周りの人に助けを求めるということも自分自身の力だ。生きていく中で自分だけで出来ないことの方が多い。その中で助けを求めるという勇気や行動力、誰に助けを求めるかという人間性や信頼性、判断力というのは生きていくことにおいて最大の武器になるかもしれない。

 今年一年人とお会いするたび「自分はこの人とどんなことができるだろう」と考えながら付き合うということをなんとなく心に留めていた。そうすると自分が困った時に助けを求めることができたり、自分も自分のできることで相手の手伝いをすることができるかもしれないと思ったのである。

 今年はありがたいことに音楽や撮影、学業方面などさまざまな分野のお仕事をいただいた。

 「ピアニストとして音楽の提供をお願いしたい」と言っていただいた時はピアニストとしてできるだけ自分の好きな音楽表現を出したいと思って作った。

 撮影の際は本人が普段出されている写真の方向性とはかなり距離があったものの相手の方が私の写真の目指したい方向性を汲み取っていただき、お互い寄り添うような形で写真での表現をさせていただくことができ、写真を撮ることとイメージを共有すること、またどのように写真を見せるかといったことまで凄く勉強させていただいた。

 学業の方面では自分の論文を読んでほめていただいたり(なんと参考文献にしてくださる方もいた)、出身である地理畑の方々が「もっと地理を盛り上げたい」とのことで一緒にプロジェクトを立ち上げましょうと誘ってくださることもあった。

 大きく捉えるとこの3つが今の自分の軸となっている活動ジャンルである。本来ジャンル別に名義を分けたりするのが賢明なのかもしれないが、この3つは自分の中では1つのまとまりがある。音楽においても写真においても学問においても「そのままにしたら消えてしまいそうなものを残したい」という気持ちがあってやっている。音楽も浮かんでは消えてしまう泡のようなものであるし、写真も消えゆく日常の一瞬を切り取るものであると思っているし、空間においても誰かが文字や写真などで形にしなければ、その日その時の空間は不可逆なものであると感じている。つまりどれをやっている自分も自分であると思っているので現状あまり分ける気は起きない。

 先日お話しをさせていただいたときに会話の中から作りたいという感情がすごく伝わってくるということを言っていただき、大げさに言ってしまえば無意識的に形にしないと消えてしまうという強迫観念(?)に似たようなものが自分を取り巻いているのかもしれないと思った。こうやってブログで書いていることも書き留めておかないと失われそうな不可逆的記憶を可逆化するためである。(だからこそ読み返して恥ずかしくなったりする)

 

 来年も「この人とこれをやりたい!」を形にしていきたいと思っている。さまざまな方面で自分ができる、自分だけではできない面白いことをやっていきたい。

それでもわたしは運命を生きる

 それは第一志望の芸術系の大学に進学した友人が「入学前に期待していたよりも周りの人が普通で残念だった」と話していたことがはじまりだった。これは自分も経験のあることだが、新たな環境に対して強い期待をしてしまいがちである。たとえば芸術系なら自分には届かないすごい天才がいて刺激を受けるとか、面白い変わった人間がいる……とかだろうか。しかし友人によれば現実は孤立した天才の集まりというよりは優等生的で協調性のある集団行動のできる”普通の人間”の集まりだったというのである。

 

 漫画やアニメでは運命的な仲間と出会い「この人とならどこへでも行けそうだなあ」という気持ちを抱きながら色々な苦労がありながらも乗り越えて成長していくストーリーが多く描かれる気がする。そういった運命的な出会いやストーリーに憧れて新たな環境に身を投じるも「あれ、こんなんじゃなかったのにな」ってなった経験がある人もいるのではないだろうか。

 

 環境というのは自分の成長に関わることだと思う。自分がビリで周りとの差が果てしなければそれはそれでしんどくなってしまうが、自分が真ん中くらいで上には上がいるんだけど頑張って努力すればなんとか上位と競り合えそうだといった環境がすごく心地よくて自分の成長にもつながるような気がする。いわゆる切磋琢磨という状態である。

 

 「期待は相手にすべきではない、自分にすることだ」という言葉があるが、ここで私は相手への期待を諦めきれていない自分に気づく。相手や環境は自分で手を下せる範囲の外であって期待は裏切られることも多い。それでも私はいつ訪れるか、訪れるかすらも分からない、自分の手を下す事の出来ない運命的な出会いやストーリーに期待してしまう。そして時に現実との乖離を感じ勝手に傷つくこともある。

 

 痛みから解放されるには運命的な出会いやストーリーといった自分の手の範囲外のいわゆる外的要因を諦めることしかない。自ら物語の主人公を諦めて”普通”の人間として生きることで楽になれるのかもしれない。それでも今の私は相手に期待したら傷つくこともあると分かっていながら結局諦めきれない。それはきっと運命的な出会いが期待に反したことへの痛みよりもはるかに魅力的なものであると期待しているからである。

 

 運命的な出会いの擬態語としてビリビリは正しいのだろうか。なにが運命的な出会いかすら分からないが(もしかしたら後になって気づくものかもしれない)ビビッと身体全体に電気が走るような感覚になったことはある。自分と友人の共同制作がだんだん形になっていく時だとか、友人と話をしていて共感し合えた時もビリビリを感じる。

 

 よくよく考えれば今こうやって仲良くしている人たちも縁が無ければ街中で会ったとしても無言ですれ違って話をすることもなかったのだから、こうやって話をしているだけでも運命的な出会いだし特別だ。ここまで書いておいて一体なにが特別でなにが運命なのか分からなくなってしまったけれど、まだ私は自分の人生に期待をしているし運命的な出会いがあることを期待している。

 

今だからこそ社会学が必要だ

 最近Twitter上で社会学に対しての風当たりが強いのを感じて、居ても立ってもいられなくなってしまったのでそれに対しての私の気持ちを書こうと思います。

 またわたしの専門は社会学ではなく大学院の入試で勉強をしてその後社会学を好きになった人間なので、専門とされている方々にとっては稚拙な内容となってしまうおそれがあるということを先に許していただけたらと思います。

 

 もともと社会学とは社会で起こっている出来事に対して理論をあてはめたり、調査をすることによって社会で起こっている出来事を分析・理解することであると考えています。その行為自体が楽しく社会学はそれだけで価値があると思うのですがこれだけだと流石に足りないと思うのでもうすこし最近感じていることを踏まえながら述べていきたいと思います。

 

 新潮12月号で社会学者である岸政彦さんも記されていたことですが、最近他者の行動に対する結果に対して「自業自得だ」としてしまう自己責任論が強くなっているように感じます。フリージャーナリストの方に対して「政府や国民に迷惑をかけた」という人もいるし、いじめを苦に自殺をしてしまった学生に対して「死んだら負け」という人もいるのです。

 西日本新聞で学者の中島岳志さんは「私たちは過度の競争社会の中、他者を助けることの「余裕」を失い、「寛容」を喪失してきた。その結果、「迷惑」に過敏になり、「自己責任」というバッシングが横行するようになった。」としています。

www.nishinippon.co.jp

 

 社会学が必要な理由はここにあると私は思います。私たちが余裕を失い自己責任が強まっているのは標的に対しての無理解から生じるのです。

 岸政彦さんは「他者の合理性の理解社会学」というテーマで「一見不合理に見える行為が、当事者にとってどのような「意味」があるかということを考えてい」ます。

 

www.ohtabooks.com

 

 先程のように一見不合理に見える行為はわれわれの余裕が無い時に標的になり得るのです。「こんなことをしたのだから、こうなってしまっても当然だ」という感情です。それは私たちの目線で”こんなこと”を見ているからであって、当事者にとっての”こんなこと”には意味があるのではないでしょうか。社会学には社会がより相手のことを理解する余裕と相手を認めることのできる寛容さを取り戻す力があると私は思います。

 

 リンカーンは「直接会って話すのが、お互いの悪感情を一掃する最良の方法である。」と言いました。好きではない、気に入らない、理解できない相手に対してこそもっとその相手を知らないといけないのです。心理学的に私たちは「根本的な帰属の誤り」に陥りやすいとされています。その人の周りの状況を見落としてしまいがちでその人の行動の理由を個人の内面に求めてしまいがちなのです。

 そのような我々が陥りやすい「根本的な帰属の誤り」に陥らないためにはどうすればよいのでしょうか。自分が相手の状況に置かれた場合を考えたり、また他者の行動の原因を内的なものに求めるのではなく、より他者のことを多く知ろうと意識的に努力することであるとされています。社会学が批判される今だからこそ社会学のことをもっと知る必要があるのだと私は思うのです。

 

 最後にTwitterで一部の社会学者の発言が問題的であり炎上している現状は確かに認めることができます。しかしそこから主語がその特定の社会学者から広範な社会学という学問全体にすり替わっていることに辛さを感じます。特定の社会学者の発言→「また社会学者か」→社会学批判という流れをタイムラインで見てはすごく嫌な気持ちになるのです。主語の大きな発言は対象をひとつにひっくるめた一般化であり、個々のケースを排除した暴力であると私は思います。より社会にもう一歩深く考える余裕が生まれ、寛容さがもたらされることを願ってやみません。

 

 参考文献

岸 政彦 (著), 石岡 丈昇 (著), 丸山 里美 (著) 『質的社会調査の方法 -- 他者の合理性の理解社会学 (有斐閣ストゥディア)』

Richard H. Smith (原著),澤田 匡人 (翻訳) 『シャーデンフロイデ: 人の不幸を喜ぶ私たちの闇』

西日本新聞(2018年12月1日)『安田純平さん解放と自己責任論 「余裕」失い 「寛容」を喪失 「迷惑」に過敏 バッシングへ 進むのは保守の空洞化』https://www.nishinippon.co.jp/feature/press_comment/article/469758/(2018年12月1日閲覧)

【インタビュー】社会学の目的 http://www.ohtabooks.com/at-plus/entry/12443/(2018年12月1日閲覧)

 

台風明けの日

 数十年に一度という規模の台風が一晩中家の窓ガラスを叩きつける中で息を潜めた昨晩。朝になって台風が過ぎ去ったのを知り外に出る。

 台風明けの日は昨晩の嵐がまるで夢だったかのような晴天で10月とは思えない猛暑であった。しかし空を見上げると肉眼を通してでも雲の流れの早さは明らかであり、それは台風の余韻を感じさせた。

 わたしは先日の台風である一つのことを発見した。台風明けの朝は街の空気が、においが変わるということである。

 港町の駅のホームのにおいが都心の張りつめたにおいよりもずっと穏やかで多様性と濃厚さを含んでいるように。台風明けの朝はいつもとは違う街のにおいがするのである。

 台風はきっと遠く、わたしの知らない街の空気を運んでくるのだろう。そしてそのことはわたしたちが今まで呼吸をしていたことを思い出させる。

 わたしが思いきり呼吸をすると、わたしの胸の中にわたしの知らない街の空気が取り込まれる。そしてまたわたしは当たり前のように呼吸を忘れるのである。