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都市を多面的に観察したい

それでもわたしは運命を生きる

 それは第一志望の芸術系の大学に進学した友人が「入学前に期待していたよりも周りの人が普通で残念だった」と話していたことがはじまりだった。これは自分も経験のあることだが、新たな環境に対して強い期待をしてしまいがちである。たとえば芸術系なら自分には届かないすごい天才がいて刺激を受けるとか、面白い変わった人間がいる……とかだろうか。しかし友人によれば現実は孤立した天才の集まりというよりは優等生的で協調性のある集団行動のできる”普通の人間”の集まりだったというのである。

 

 漫画やアニメでは運命的な仲間と出会い「この人とならどこへでも行けそうだなあ」という気持ちを抱きながら色々な苦労がありながらも乗り越えて成長していくストーリーが多く描かれる気がする。そういった運命的な出会いやストーリーに憧れて新たな環境に身を投じるも「あれ、こんなんじゃなかったのにな」ってなった経験がある人もいるのではないだろうか。

 

 環境というのは自分の成長に関わることだと思う。自分がビリで周りとの差が果てしなければそれはそれでしんどくなってしまうが、自分が真ん中くらいで上には上がいるんだけど頑張って努力すればなんとか上位と競り合えそうだといった環境がすごく心地よくて自分の成長にもつながるような気がする。いわゆる切磋琢磨という状態である。

 

 「期待は相手にすべきではない、自分にすることだ」という言葉があるが、ここで私は相手への期待を諦めきれていない自分に気づく。相手や環境は自分で手を下せる範囲の外であって期待は裏切られることも多い。それでも私はいつ訪れるか、訪れるかすらも分からない、自分の手を下す事の出来ない運命的な出会いやストーリーに期待してしまう。そして時に現実との乖離を感じ勝手に傷つくこともある。

 

 痛みから解放されるには運命的な出会いやストーリーといった自分の手の範囲外のいわゆる外的要因を諦めることしかない。自ら物語の主人公を諦めて”普通”の人間として生きることで楽になれるのかもしれない。それでも今の私は相手に期待したら傷つくこともあると分かっていながら結局諦めきれない。それはきっと運命的な出会いが期待に反したことへの痛みよりもはるかに魅力的なものであると期待しているからである。

 

 運命的な出会いの擬態語としてビリビリは正しいのだろうか。なにが運命的な出会いかすら分からないが(もしかしたら後になって気づくものかもしれない)ビビッと身体全体に電気が走るような感覚になったことはある。自分と友人の共同制作がだんだん形になっていく時だとか、友人と話をしていて共感し合えた時もビリビリを感じる。

 

 よくよく考えれば今こうやって仲良くしている人たちも縁が無ければ街中で会ったとしても無言ですれ違って話をすることもなかったのだから、こうやって話をしているだけでも運命的な出会いだし特別だ。ここまで書いておいて一体なにが特別でなにが運命なのか分からなくなってしまったけれど、まだ私は自分の人生に期待をしているし運命的な出会いがあることを期待している。