sisouron

都市を多面的に観察したい

2018年3月19日~2018年3月22日

3月19日

 先日英語の講義で印象に残った二人の女の子のことを思い出していた。
 一人は「友達を作るのが得意な子」。自分は友達が少ない方なので、どうしたら友達がいっぱい出来るのか話を聞いていた。「どうすれば友達が作れるんですか?」と率直に質問した訳ではないが、話を聞いていて自分が感じた友達の多い人の法則を見つけたので紹介したい。
①話をするのが好き
②話を聞くのが好き
③外に出るのが好き とりあえずこの3つである。
 
 彼女はとにかく人とコミュニケーションをするのが好きで、バイトも人と話がしたいからという理由で接客をやっているらしい。
勿論コミュニケーションというのはどちらかが一方的に喋っていると成立しなくなってしまう。コミュニケーションが上手い人は話をするのも上手いが、人の話を聞くのも上手い。自分も現にこうやって友達の作り方を教えて貰っているぐらい人の話を聞くのが好きだ。では友達が少ないのはなぜなのか。
 そこで③を見てみよう。外に出てバイトやサークルなどをしていれば、人と出会う回数や人数も自然と増える。友達が多い人というのは、まず生活の中での出会う人という分母が多いのである。なるほど確かに私は分母からして少ない。
 
 彼女は一日の多くを外で生活していて、予定も一日に何個も入れているらしい。何もしていないことが無理と感じるようである。
 確かに私も何個もの用事をやり遂げた日は達成感があって凄く気持ちよく眠れる。しかし一方で私は一日に何個も移動を伴う予定があると焦ってしまってどちらも駄目になってしまうのではないかと心配して多くの用事を入れることが出来ない。だから一日に何個も用事を済ますことが出来る人を凄く尊敬するし羨ましくもある。家にいてもぼーっとしてるだけだし、それならバイトをするなり友人と遊びに行くなりすれば良いのだろうけど中々腰が重い。焦ることはきっとない。明日は今日よりも少しずつ外に出て、少しずつ人と関わっていければいい。

 長くなってしまったのでもう一人の話はまた明日。

3月20日

 もう一人の印象に残った女の子の話をしたいと思う。これは英語の講義の時の話でちょうど私がTOEFLという語学試験の話をしていた時のこと。「TOEFLって凄くセキュリティが厳しくて金属探知機とかで身体を調べられるらしいですよ」と言ったら彼女は「それじゃあ私めっちゃ鳴っちゃうじゃないですか~」と言いながら膝を擦って「私、ここに人工関節が入ってるんですよ」と少し笑いながら言ったのである。多分その時の自分は予想外の事にびっくりして少し遅れた後に当たり障りのない返答をしたのだと思う。
 彼女は旅行するのが好きで海外もよく行くが、その度に金属探知機に引っ掛かってズボンを捲って人工関節を説明するらしい。
 その時自分は強くて素敵だなって思った。きっと生きる上で面倒で大変なことも多いとは思うが、それを受け入れて人生を楽しんでるって凄くかっこいい。
 相手がそういったことを打ち明けてくれたときに可哀想だなとか辛そうだなとか思う人もいるだろう。私は相手が自分に打ち明けてくれたとき、可哀想だとか辛そうだとか思って欲しくて同情を求めて打ち明けてくれたのではないだろうと思う。当事者ではないし、これは人それぞれだから言い切れないがそんなに重く受け止めて欲しくはないのではないかなって思う。

 私の周りには精神的な病気を抱えている人が多くいる。その中で自分の生きづらさみたいなものを自虐ネタのように話してくれる人も多い。それが私は好きで、そういう話を聞くたびになんか愛しくなる。人の不完全さみたいなところに魅力を感じているのかもしれない。

 自分も自律神経失調症に悩まされていた時期がある。その時はストレスでご飯を食べられなくなってしまったり、外食で吐いてしまったらどうしようかと怖くて外食が出来なかったり、人と食事が取れなかったり、外に出るのも嫌だった時期もあった。最近はようやく人前で少しずつ食事が出来るようになってはいるが、発症前までは回復していない。
 自律神経失調症はそれこそ多くの人が抱えている病気で、病気であると自覚していない人も多いくらいじゃないかと思う。それでも症状は本当にしんどいし、実際生活に支障を来していた。
 
 人を健常者と障害者にきっちり二分化出来る訳なんてなくて、グラデーションのようなものだと思う。
 話が脱線してしまったが、とにかく人の不完全さって愛しい。そんなところに私は惹かれてしまう。自分の不完全なところも自分だよなって思いながら、不完全と一緒に上手くやっていけたらいいなと思う。

2018/3/21

 私は72時間というNHKのドキュメンタリー番組が好きだ。確か前回は渋谷の街で物々交換をするといった話だった。突然物々交換を頼まれた人々は何か渡せるものがないかとバッグを探る。出てくる物それ自体はありふれたものだけど、その物に込められたドラマが楽しい。例えばアーティストになるために中国でストリートライブをして帰国した人の「コンセントの変換器」とか、田舎から上京して一人で映画を見ることが増えて使う機会の多かった「イヤホン」とか。物語を知るとただの物が愛しく見えてくるなって思う。

 都心は多くの人がいるのに匿名性が高い。何故なら多くの人がいるところで、人々との関係を常に強く保ち続けることは疲れるからだそうだ。だから都心の生活の中で人々が匿名性を帯びるのは自然のことであって、それはきっと自由とも言う。
 しかしこういったドキュメンタリーを見ていると、都心の人って多くの人に囲まれているのにどこか寂し気で、人々と繋がりたいんだなって感じる。かく言う私もそうで、誰かに縛られることのない都会の自由を享受しているが、その一方で寂しくて繋がりたいという気持ちになる。だから人が有り余る都会の中で、くだらない話を聞き合える相手ってほんとうに貴重だ。

3/22
 Twitterで「誰か行かない?」ってツイートを目にするたびに何となく「ああ、私は呼ばれてないな」って思う。もしかしたらリプライを飛ばせば「ぜひぜひ!」と言ってくれるのかもしれないが、誰かじゃなくて名前で呼ばれたいよなって思う。
 確かに自分も「誰か行かない?」って便利だから気軽に使ってしまう。でもこの「誰か」って本当に誰でも良いんじゃなくて、ある程度の範囲があるのだと思う。特定の人ではなくてもある程度遊びたいなと思える人といった範囲の指定はあるはずである。

 自分の経験上「誰か行かない?」と言っても人は来てくれない。一方で「一緒に行かない?」と友人に声をかけると結構乗ってくれる。多分みんな「誰か」って言葉に何か引っ掛かりを感じている。「誰か」というのは凄く使いやすい言葉だけど、「一緒にやらない?」と声を掛けられるようにしたい。自分も声を掛けて貰いたいから、自分から変わっていかないといけないなって思う。

 ここまでは遊びや誘いの話だからいいが、これが仕事などになったら別の話だよなって思う。以前サークルの代表をしていたが「誰かこの仕事やってもらえますか?」なんて言っても誰も手伝ってくれるはずはない。私が代表だったときはサークル員を観察して「○○さんは××が上手いから頼んでもいい?」と声を掛けていた。そうすると嫌がらずに大体の人は力を貸してくれる。

 話を変える。今私は作曲やバンド活動をしているが、メンバーを依頼するときも「誰かボーカルやってくれないかな~」では人は集まらないし、いい作品も多分出来ない。実際に歌声を聴いて、この人に歌って欲しい、この人のために曲を作りたいという気持ちがボーカリストにとっても作曲者にとっても良い関係を保つのではないだろうか。
 自分は絵が描けないのでジャケットを依頼することもあるが、その時も相手に対してのリスペクトが大事であって「誰かジャケット描いてくれ~~」ではなく「是非あなたに描いて欲しい!」という気持ちが大事だと思う。ある作曲家の友人は「ジャケットを好きなイラストレーターさんに描いてもらうために音楽をやっている」と言っていたほどである。なるほどそういう動機もあるんだなって思う。
 話が結構膨らんでしまったが、私は「誰か」ではなく「名前」で呼ばれたい。そのために自分から少しずつ「誰か」ではなくてちゃんと「名前」で呼びたいと思う。