sisouron

都市を多面的に観察したい

2018.05.15(かため)

■身近な人5人の平均が自分?

 先日twitterで「身近な5人の人の平均をしたのがあなたです」みたいなツイートを見て本当か~?と思ったのでブログを久しぶりに書いてみる。よくよく調べるとこの言葉はアメリカの起業家であるジム・ローンという人の言葉だとか。確かに人間の成長において周りの環境って凄く大事だと思うし、現に私の周りには尊敬出来る人がいて、お互いに良い影響を与えられていればいいなと思っている。

 その一方で自分の身近な5人が自分に似ているかというと結構違くない?って思う。まず人付き合いから多くを得たいと考えるとき、私なら自分と似ている人間よりも自分と異なる人間と付き合う。なぜなら似ている人よりも似ていない人の方が自分には持っていない考えを持っているので、そこから得られるものも多いのではないかと思っているからである。先日某大学の教授が「自分の考えていることに対して話し合える他分野の仲間を作りなさい」とおっしゃっていたが、まさにその通りで自分の持っていない考えを持っている人って凄く大事だと思う。

 

■で、身近な5人とは……?

 初めこの「身近な5人」というフレーズを見たとき、思い浮かんだのは仲の良い友人だった。しかしジム・ローンが言うことにはこの5人は「あなたがもっとも多くの時間をともに過ごしている」人らしい。そうしたら大多数の人々は家族を挙げるのではないかと思う。なるほど確かに家族なら自分に似てるかもしれない。しかし私の家にはペットもいないので家族を含めても5人にはならない。そうしたら誰を選べばいいんだろう。

 きっと「あなたの身近な5人は?」と聞かれて悩む人とぱっと思い浮かぶ人がいると思う。ぱっと思い浮かぶ方へ、おめでとうございます。この先はたぶん読まなくて大丈夫。

 恐らく身近という言葉には空間的/精神的という2つの距離感が含まれている。多分ここで言われる身近は精神的身近さの方である。精神的身近さってなんだろうって考えたとき「気軽さ」という言葉が頭の中に浮かんだ。

 ちょっと話はズレるが先日「夜更かしLINE」というのが欲しいねという話を友人としていた。内容としては夜になったらそのLINE上で誰かが「なんか話しない?」と振って起きてる人とただ話すだけというものなのだけれど「んー、それって個別でLINEすれば良くないか?」と言った後にLINEってなんか難しいなと思ってしまった。

 Twitterはひとりごとが主で、それに対して返信をするという気軽さがある。一方でメールはひとりごとではなくて特定の相手がいて何か用事があってお願いをしたりするときに使うことが多い。その点LINEは中途半端な位置にあって、twitterのような多くの人の目に触れるひとりごとはあまりしないが、グループというクローズドコミュニティの中では「誰か暇?」みたいな気軽な誘いはしやすい。つまり何かメールで頼むような用事が無いと使ってはいけないといった感じでは無さそうである。しかし用事が無いのに相手にLINEをするというのは中々難しそうだ。

 話がかなり脱線してしまったので元に戻そう。身近な人って「用事とかがなくても気軽に連絡しあえる人」の事ではないだろうか。私は誰かと連絡をするとなると仕事のことだとか、なにかと行きたいところとか理由をつけて遊びに誘ったりしてしまうが、その人と会うということを理由にしたっていいはずだ。それに気軽な話をしあえる人って大事だ。そう思うとなにか取り留めのない話って実は価値があって、そういう話を共有できる人は尊いのではないかって気がする。お風呂上りにコーラを飲みながらこれを書いてる、人付き合いってもう少し気軽に考えてもよさそうだ。

 

 

TOEFL体験記

TOEFL受けに行きました。参考になるサイトは沢山あるので面白かったことをまとめておきます。

【試験の前段階】
半年前くらいから受験の予約ができます。
人気の会場(会場によって設備が違うらしい)というのがあって、そこはかなり早くのうちから埋まるみたいです。
今回は1か月前に予約したらかなり埋まってました。ただ自宅から電車で1本だし結構近い方なのでまあアリだったかなと。ギリギリに予約すると宇都宮しか空いてなくて宇都宮に飛ばされる……ということもあるらしいので何事も早めに、が大切ですね。
元々TOEFLはやばいということを知っていたので事前に調べていたおかげで狼狽えずに済んだけど、普通の試験と同じノリで行くときっと衝撃を受けると思います。

まず本人確認にパスポートが必須、振り込みがドル払いで自分のクレカが必須(しかもUS$230もする、クレカ止まりました)というところから面白いんだけど、試験会場で私は不正をしませんという英文を書き、宣誓書を朗読させられ、写真を撮られ、金属探知機にかけられます。そしてテストしてるところは全て上から監視カメラで監視されてます。これ本当にテストか?

あとこれは余談ですがアメリカの本部から厳しい指導があるようで「眼鏡をしてるとカメラつきかどうか確かめられる」「不思議な形の耳栓はアンテナの可能性があるから持ち込み禁止」等。もう何でもありやん、面白すぎる。
ちなみにテスト会場はハンカチすら持ち込み禁止でポケットは空にしないといけません。ここまで来ると流石におかしくない??と思うんだけどどうでしょうか。

勿論こんな身体検査があるのでテストまでに時間がかかります。例えばテスト開始が10時で、9時半に行くと50分くらい待たされて10:20開始くらいになります。あれ?10時開始なのに10:20開始とは……?と思われた方もいるでしょう。そうなんです。

テスト開始時間が決まってるのに同時に始まらないんです。だからテストやってるのに宣誓書を読んでる声が聞こえたり、人が入ってきたりします。本当にカオス。

そしてテストが始まる前にマイクチェックをやるんですけど、それで一応「Discribe your city」みたいな指示が出るんだけどマイクチェックなので何を話してもいいらしく、みんなずっと「I live in Tokyo.」と連呼してます、ほんとカオス。

【テスト】
Reading(80分・約800字×4パッセージ)
→時間足りへん、頭お菓子になるで🍬┌(┌ ³ω³ )┐🍬

Listening(60分・5分の会話・講義×3が2セット)
→早口すぎる。教授氏~~生徒のためにゆっくり話してくれ~~、それと謎の皮肉とかジョーク言うな~~

[休憩](10分)
→チョコ食べて水分補給、それと身体を動かす。奇怪な動きをしていたのは僕だけでした。

Speaking(6問)
文章読む→講義聞く→要約話したり自分の意見
何か講義で聴こえたことをそれっぽく話す。日本語ですら難しいのに自分でも何いってるか分からなくなるよ。

Writing(20分1題+30分1題)
①文章読む→講義聞く→書く
②出された質問を書く
30分で英文300文字かなりしんどい。あとパソコンがアレでカーソルが飛んでしまったのでミスタイプしてしまったかも、負けました。

これで合計4時間半くらいです。9時30分に来て終わったのが14時半くらいだったかな、本当にお疲れさまでした。

あまりに厳重で飛行場とか国境管理局の方が緩くて笑える。パソコンが並んでるところで延々と英語に漬かり、時計も持ち込み禁止でなので時間感覚も無くなります。試験が終わって外界に出ると時間が経っててちょっとした浦島太郎体験が楽しめます。

TOEFLは試験としては最悪だけどアトラクションとしては最高なのでみなさんも是非何らかの罰ゲームにでもやってみてください。私はもうやりたくないです

2018年3月23日~2018年4月1日

3月23日

 先日地元の大好きなパティスリーに行った。このお店はコンフィチュールがスペシャリテでバレンタインのお返しはコンフィチュールにしようと私はずっと並べられた瓶の前で悩んでいた。
 
 自分より少し若く見える女性が「コンフィチュールは試食も出来ますので」と声を掛けてくれたのでお言葉に甘えて試食させてもらおうと思ったが名前がどれもお洒落すぎて何を試食すれば良いのかが分からない。お店の人に「どれがおすすめですかね……?」と言うと「お客様ですと桃とジャスミンいかがでしょうか」と勧めてくれたので「それでお願いします」と言う。桃とジャスミンは想像つかなかったが、桃の甘さとその後に残るジャスミンの華やかな香りは凄く上品でよかった。

私はお店の人とコミュニケーションを取るのが好きだ。言葉が無くても成立するコミュニケーションもある。例えば喫茶店に行くとマスターが棚に沢山あるコーヒーカップの中からその人に合ったカップを選んでくれるとか。お店の人という初対面で、もしかしたらもう二度と会わない人が自分のために「この人のイメージならこの味かなあ」とか「この人はこのカップが似合いそうだな」って考えてくれるのが嬉しい。

 相手が自分に対してどう思ってるかって凄く大事なんだけど、自分には分からない。自分は自分そのものを見ることは出来なくて、鏡に写った姿しか見れないのと似ている。喫茶店でそんなことを考えながら渡されたコーヒーカップの形や彩飾を見てちょっと嬉しくなる。

3月24日

 今日は仲間の誕生日だったので誕生日祝いも兼ねて花見をしに行った。花見楽しいね。人混みは大の苦手なんだけど今日は全く平気だった。また来年も行きたい。それとプレゼントはやっぱり使ってもらえると嬉しいね。

3月25日

 先日twitterで流れていたこのツイート(https://twitter.com/sugary_pixie/status/969173767841656835)を考えてた。確かに相手が自分のことを思っている度合いと自分が相手のことを思っている度合いに違いが生じるのは当然で、時にそれは悲劇(?)を生む。自論であるが友達かどうか悩むくらいならそれは友達であると思った方が良い。悩むくらいの関係なら相手も自分のことを友達と思ってくれてる気がする。一番の問題はその度合いの違いによる副次効果の方だと思う。

 友人の親密さによってその人に対しての話し方とか行動とかが変わる。例えば親密さの解釈が違うと「なんかこの人馴れ馴れしくない?」ということが起こり得る。距離感の違いと言えば良いのだろうか。自分はなんとなくこの距離感の違いが怖くて仲良くなりたくても無意識に距離を置こうとしてしまうことがある、難しいね。

3月26日

 卒業式後、お世話になった教授との懇親会が印象的だった。「君たちは大学で色んなことを学んだけど卒業してからが本当の学びだよ」「自分の卒業した専攻を誇りに持て」と言われ卒業することを再び認識しては悲しくなってしまった。
 教授は最後に「君たちの人生だから好きなことをしなさい」と言ってくれた。教授は好きなことを突き詰めて生きてきた人たちだから重いメッセージに感じた。 

 好きなことで生きている人を甘えだとか馬鹿にする人がいた。夢を語る人に「どうせ無理だよ」という人もいた。好きなことをして生きるのって凄く大変だし勇気のいることだと思う。それを馬鹿にすることなんて誰にも出来ないって思う。むしろ好きなことを諦めることの方が楽だ。好きなことを追いかけている限りはその人はかっこいいし強い、恥ずかしいことではないしむしろ誇ってもいい。


3月27日

 最近あまり見かけない先生がいた。在籍はしているのに担当している講義も無くなりゼミ生ではなかったが心配をしていた。
 
 その先生は若手で期待の新人研究者といった人だった。その先生も懇親会に出席してくれたのだが、はじめ見たとき見た目の違いに誰だか気づかないほどだった。少し痩せて頭はスキンヘッドになっていたからだ。おそらく抗がん剤の副作用だろうか。若くして期待の新人とされていた先生が病気になってしまったということにショック受け、誰しも平等に病気は訪れるんだなと改めて思った。

3月28日
 「明日死ぬかのように生きろ」という言葉がある。自分は明日死んでも後悔しないように生きなさいという意味かと思ったが違う捉え方をする人もいるらしい。「どんなに頑張っても死が近づいていたら意味がないよ」と。

 死とは何か。人の心臓が停止すればそれで死であるということも出来るが何となくしっくり来ない。死んだ人間は親族や身近な人の中で生き続けるからだ。それなら「どんなに頑張っても死んだら意味無いよ」とは思えない気がする。これはどう死ぬかという話にも繋がるが死んだ後も人の中で生き続けるとすれば、死を理由に努力を止めるのは何か違う気がする。

 突然余命一年を宣告された患者が言った。「死が近づいてようやく生きる素晴らしさに気がついた。人生の中で今が一番生きていると実感している」と。
 余命宣告をされていない人も突然亡くなるかもしれないし事故で死ぬかもしれない。だから私たちは死の準備をすることは出来ない。
 自分はそんなことを考えながら今日も生きている。何となく安心感のない吊り橋を渡りながら、その先にどんな人や道が待ち受けているのか不安と期待が混ざるも幸い期待の方が勝っている。

3月31日
 バンド仲間との卒業旅行から帰宅。楽しすぎて燃え尽きてしまった。燃え尽きてる場合じゃないんだけど楽しいことがあるといつもこういう反動が襲ってくる。
 こういう時本当に自分は不便だなあって思う。遊んでると凄く楽しいけど、それが終わると襲ってくる孤独やら心にぽっかり空いたような空洞、祭りの後症候群とでも名付けたい。
「おいお前!遊んだんだから少しは仕事しろよ!」と自分に問い掛けるけど全く動かない。どうしようもない。
 どうすればいいんだろう。早くこういうのから解放されたい。

 4月1日
 
 新学期になってしまった。この一年を振り替えると本当にいい一年だったが、もっとこうしていればよかったなと思うことがあまりに多すぎる。人生一度目だもんね、あまり自分を責めても仕方ないよねと思ったので、反省というよりは今年度上手く出来るような課題にしたいと思う。

 良かったと思ったことだけでも挙げるとすれば、この一年で人前で食事をする恐怖心が減って旅行も楽しめるようになったなあということでこの成長は自分の中ではかなり大きい。多分周りの友人に恵まれているお陰で改善したんだと思う。そう思うと本当に感謝しかない。
  
 さて今年度もどうなることやら自分でも分からないけど、やりたいことをやるために頑張ろうと思う。とにかく自分の出来ることをする中で人助けをしたいし無理って時は自分から助けを求められるようになりたい。何はともあれ自分の好きをやるために努力を惜しまない一年になればいいなと思う。

2018年3月19日~2018年3月22日

3月19日

 先日英語の講義で印象に残った二人の女の子のことを思い出していた。
 一人は「友達を作るのが得意な子」。自分は友達が少ない方なので、どうしたら友達がいっぱい出来るのか話を聞いていた。「どうすれば友達が作れるんですか?」と率直に質問した訳ではないが、話を聞いていて自分が感じた友達の多い人の法則を見つけたので紹介したい。
①話をするのが好き
②話を聞くのが好き
③外に出るのが好き とりあえずこの3つである。
 
 彼女はとにかく人とコミュニケーションをするのが好きで、バイトも人と話がしたいからという理由で接客をやっているらしい。
勿論コミュニケーションというのはどちらかが一方的に喋っていると成立しなくなってしまう。コミュニケーションが上手い人は話をするのも上手いが、人の話を聞くのも上手い。自分も現にこうやって友達の作り方を教えて貰っているぐらい人の話を聞くのが好きだ。では友達が少ないのはなぜなのか。
 そこで③を見てみよう。外に出てバイトやサークルなどをしていれば、人と出会う回数や人数も自然と増える。友達が多い人というのは、まず生活の中での出会う人という分母が多いのである。なるほど確かに私は分母からして少ない。
 
 彼女は一日の多くを外で生活していて、予定も一日に何個も入れているらしい。何もしていないことが無理と感じるようである。
 確かに私も何個もの用事をやり遂げた日は達成感があって凄く気持ちよく眠れる。しかし一方で私は一日に何個も移動を伴う予定があると焦ってしまってどちらも駄目になってしまうのではないかと心配して多くの用事を入れることが出来ない。だから一日に何個も用事を済ますことが出来る人を凄く尊敬するし羨ましくもある。家にいてもぼーっとしてるだけだし、それならバイトをするなり友人と遊びに行くなりすれば良いのだろうけど中々腰が重い。焦ることはきっとない。明日は今日よりも少しずつ外に出て、少しずつ人と関わっていければいい。

 長くなってしまったのでもう一人の話はまた明日。

3月20日

 もう一人の印象に残った女の子の話をしたいと思う。これは英語の講義の時の話でちょうど私がTOEFLという語学試験の話をしていた時のこと。「TOEFLって凄くセキュリティが厳しくて金属探知機とかで身体を調べられるらしいですよ」と言ったら彼女は「それじゃあ私めっちゃ鳴っちゃうじゃないですか~」と言いながら膝を擦って「私、ここに人工関節が入ってるんですよ」と少し笑いながら言ったのである。多分その時の自分は予想外の事にびっくりして少し遅れた後に当たり障りのない返答をしたのだと思う。
 彼女は旅行するのが好きで海外もよく行くが、その度に金属探知機に引っ掛かってズボンを捲って人工関節を説明するらしい。
 その時自分は強くて素敵だなって思った。きっと生きる上で面倒で大変なことも多いとは思うが、それを受け入れて人生を楽しんでるって凄くかっこいい。
 相手がそういったことを打ち明けてくれたときに可哀想だなとか辛そうだなとか思う人もいるだろう。私は相手が自分に打ち明けてくれたとき、可哀想だとか辛そうだとか思って欲しくて同情を求めて打ち明けてくれたのではないだろうと思う。当事者ではないし、これは人それぞれだから言い切れないがそんなに重く受け止めて欲しくはないのではないかなって思う。

 私の周りには精神的な病気を抱えている人が多くいる。その中で自分の生きづらさみたいなものを自虐ネタのように話してくれる人も多い。それが私は好きで、そういう話を聞くたびになんか愛しくなる。人の不完全さみたいなところに魅力を感じているのかもしれない。

 自分も自律神経失調症に悩まされていた時期がある。その時はストレスでご飯を食べられなくなってしまったり、外食で吐いてしまったらどうしようかと怖くて外食が出来なかったり、人と食事が取れなかったり、外に出るのも嫌だった時期もあった。最近はようやく人前で少しずつ食事が出来るようになってはいるが、発症前までは回復していない。
 自律神経失調症はそれこそ多くの人が抱えている病気で、病気であると自覚していない人も多いくらいじゃないかと思う。それでも症状は本当にしんどいし、実際生活に支障を来していた。
 
 人を健常者と障害者にきっちり二分化出来る訳なんてなくて、グラデーションのようなものだと思う。
 話が脱線してしまったが、とにかく人の不完全さって愛しい。そんなところに私は惹かれてしまう。自分の不完全なところも自分だよなって思いながら、不完全と一緒に上手くやっていけたらいいなと思う。

2018/3/21

 私は72時間というNHKのドキュメンタリー番組が好きだ。確か前回は渋谷の街で物々交換をするといった話だった。突然物々交換を頼まれた人々は何か渡せるものがないかとバッグを探る。出てくる物それ自体はありふれたものだけど、その物に込められたドラマが楽しい。例えばアーティストになるために中国でストリートライブをして帰国した人の「コンセントの変換器」とか、田舎から上京して一人で映画を見ることが増えて使う機会の多かった「イヤホン」とか。物語を知るとただの物が愛しく見えてくるなって思う。

 都心は多くの人がいるのに匿名性が高い。何故なら多くの人がいるところで、人々との関係を常に強く保ち続けることは疲れるからだそうだ。だから都心の生活の中で人々が匿名性を帯びるのは自然のことであって、それはきっと自由とも言う。
 しかしこういったドキュメンタリーを見ていると、都心の人って多くの人に囲まれているのにどこか寂し気で、人々と繋がりたいんだなって感じる。かく言う私もそうで、誰かに縛られることのない都会の自由を享受しているが、その一方で寂しくて繋がりたいという気持ちになる。だから人が有り余る都会の中で、くだらない話を聞き合える相手ってほんとうに貴重だ。

3/22
 Twitterで「誰か行かない?」ってツイートを目にするたびに何となく「ああ、私は呼ばれてないな」って思う。もしかしたらリプライを飛ばせば「ぜひぜひ!」と言ってくれるのかもしれないが、誰かじゃなくて名前で呼ばれたいよなって思う。
 確かに自分も「誰か行かない?」って便利だから気軽に使ってしまう。でもこの「誰か」って本当に誰でも良いんじゃなくて、ある程度の範囲があるのだと思う。特定の人ではなくてもある程度遊びたいなと思える人といった範囲の指定はあるはずである。

 自分の経験上「誰か行かない?」と言っても人は来てくれない。一方で「一緒に行かない?」と友人に声をかけると結構乗ってくれる。多分みんな「誰か」って言葉に何か引っ掛かりを感じている。「誰か」というのは凄く使いやすい言葉だけど、「一緒にやらない?」と声を掛けられるようにしたい。自分も声を掛けて貰いたいから、自分から変わっていかないといけないなって思う。

 ここまでは遊びや誘いの話だからいいが、これが仕事などになったら別の話だよなって思う。以前サークルの代表をしていたが「誰かこの仕事やってもらえますか?」なんて言っても誰も手伝ってくれるはずはない。私が代表だったときはサークル員を観察して「○○さんは××が上手いから頼んでもいい?」と声を掛けていた。そうすると嫌がらずに大体の人は力を貸してくれる。

 話を変える。今私は作曲やバンド活動をしているが、メンバーを依頼するときも「誰かボーカルやってくれないかな~」では人は集まらないし、いい作品も多分出来ない。実際に歌声を聴いて、この人に歌って欲しい、この人のために曲を作りたいという気持ちがボーカリストにとっても作曲者にとっても良い関係を保つのではないだろうか。
 自分は絵が描けないのでジャケットを依頼することもあるが、その時も相手に対してのリスペクトが大事であって「誰かジャケット描いてくれ~~」ではなく「是非あなたに描いて欲しい!」という気持ちが大事だと思う。ある作曲家の友人は「ジャケットを好きなイラストレーターさんに描いてもらうために音楽をやっている」と言っていたほどである。なるほどそういう動機もあるんだなって思う。
 話が結構膨らんでしまったが、私は「誰か」ではなく「名前」で呼ばれたい。そのために自分から少しずつ「誰か」ではなくてちゃんと「名前」で呼びたいと思う。

2018年3月15日~2018年3月18日

3月15日

 海外に行く予定は無いが取っておこうと思いパスポートを申請に行く。

 ところでパスポートを申請するのには戸籍謄本が必要になる。戸籍謄本を申請するには本籍の情報が必要になるが、この本籍という制度が面白い。自分に全く関係のない場所を本籍としてもいいのはなぜだろう。
 皇居の住所や北方領土の住所を本籍にしている人がいるのを聞いたことがあるが、多分戸籍謄本を申請する際に千代田区根室市から取り寄せなくてはいけないから自分はこのままで良いかなって思う。

 この文章を書いている深夜バスの中で「深夜バスはシルバーパスが使えません」というアナウンスが響いてふふってなる。お年寄りも夜遊びしないのかな。


3月16日

 誕生日の近い友人に贈るプレゼントを何にしようか考える。プレゼントって何が正解なんだろう。
 ここで大きく二つの考えがある。ひとつはその人のことを考えてどんなものが気に入るかよく吟味して選ぶ。もうひとつは自分の好きなものを選んで渡すというものだ。

 前者はまず「欲しいものリスト」があれば簡単だ。プレゼントを渡す相手がちょうど公開していたのでそこから選んで贈ったことがある。これは確かに外れることは無いし、贈った相手によればAmazonの箱が突然届くので中々サプライズ感もあるらしい。しかし「欲しいものリスト」がなければ相手を分析して何が気に入るのか推理しないといけなくなる。相手のことを知っていれば知っているほど難しいし楽しい。

 自分は今回、自分の好きなものを選ぶことにした。勿論誕生日プレゼントをその人のことを思って贈るというのは凄く素敵だ。一方で「自分はこれが凄く好きだからよかったら使ってほしい!」みたいなプレゼントも自己紹介のようで素敵だと思う。普段自分では買わないような物を相手から渡されれば、そこから話題が広がるし、新たな世界を知ることが出来るかもしれない。気に入ってくれるか分からないがそれも含めて楽しい。


3月17日

 たまに好意って何だろうなと思うことがある。先日英単語のテストでloveの同義語でlikeを選ばせる問題があったが果たして同義語なのか。イコールではないけど確かに同義語なのかもしれない。

 私は好意を持つということはまず第一に「この人をもっと知りたいということ」なのでは無いかと思う。相手と話をして相手から影響を受けて、自分の中に取り込んでいく。そうやって好きな人に似ていくのかもしれない。

 好きって感情はエゴだと思う。相手が自分のことをどう考えているのか関係なく湧き出る感情だからきっとわがままで自分勝手だ。こんなとき相手が自分のことをどう思ってるか分かれば楽なのになって思う。そんなことを考えたり調べたりして分かったことは、どんな心理学の本とかを読んだとしても相手のことなんて分かりそうにないなってことだけだった。

 例えば相手が遊びに誘ってくれるとかすれば、この人は少なくとも自分に興味を持ってくれているんだなと感じることが出来る。逆に相手が遊びに誘ったりしてくれないと、何となく嫌われてるのかなと疑心暗鬼してしまうこともある。そして疑心暗鬼すればするほど、ただの疑心暗鬼だったものが態度にも表れてきて、いつか本当に嫌われてしまって自分も相手を嫌いになる。根拠のない疑心暗鬼は最悪の結果しか生みそうにない。


3月18日

 この時期は卒業シーズンでSNSは卒業旅行や追いコンなどの話題で盛り上がる。自分もサークルに入っていて卒業旅行も先日箱根に行き、追いコンも参加しピザを友人と食べ、夜まで球を投げてという感じであった。思い出せばイベントを企画したり、代表を経験させてもらったりと成長できた場所だったなと感じるし愛着もある。
 自分がふとSNSを眺めていると友人が海外の卒業旅行(台湾、ハワイ、アラビアに行った人もいた)や追いコン(綿密に企画されていて後輩からのプレゼントとかもあったらしい)とかをしていて、意味なんて無いと知りながらも無意識に自分と比べてしまう。これって結局「ないものねだり」なんだなって思うけど、何かもう少し暴れたかったなという気持ちもある。

 来年も社会人ではなく勉強を続ける予定の自分にとって卒業は何となくぼんやりとしている。このぼんやりとした不完全燃焼感が自分の中にあるんだなって思う。
 このもやもやに区切りを付けたい。区切りを付けるために何かイベントを挟むのがいい。卒業旅行という名目じゃないにしても友人と大きな旅行をしようかなと思ったり後輩と共に盛大に卒業を祝いたい気持ちもある。こんなに長く話したが、結局私は友人とアラビアに行きたいし後輩に盛大に祝われたいだけである。

2018年3月9日~2018年3月14日

3月9日

 3月9日といえばレミオロメン。当時キットカットと一緒に販売されていて買ったことを思い出して調べてみたら11年前とか出てきて鳥肌が立った。

 話は変わるが結構前から後輩に「いつも「エモい」とか「温泉」って言ってますよね」と指摘されている。そのたびに恥ずかしくなって「エモい」という言葉を使わないようにしようとしていたが、先日エモいを使わないようにすることをやめた。
 「エモい」という言葉はやめようとしてやめられるものではないし、本当にエモいものに出会ってしまうと「エモッッッ!!!」ってなる。声に出すかどうかは別として。
 今思いつくエモかった思い出は昨年に行った「江戸東京たてもの園」だと思う。また今年も行きたい。あと温泉も。行こうよ温泉。

3月10日

 教員免許状を無事取得した。有り余る教職の履修のおかげで単位数自体は特に心配は無かったが(卒業論文は少し心配だった)、教員免許状の取得は凄く心配だった。自分の専門から離れた高校公民科にはプラスで何科目か必要であり、取得に関わる履修が卒業間近まで入っていたからである。簡単に言えばフル単をしないと高校公民科の免許は落としていたので本当によかった。
 教員免許状を取得できたが今年の春から教員になるという訳ではない。確かに昨年の教育実習で3週間だけだったが、生徒と話をしたり勉強を教えたり部活を見ることが楽しかった。普段から朝早く起きるのも苦手な自分が毎日朝6時には起きて7時半には学校に行き、17時まで学校にいて、家でも採点や連絡等(いわゆる残業?)をしていても楽しくて初めて自分に向いている仕事を見つけたなと実感するほどだった。
 ただその一方でまだまだやりたいことがあって、そのためにもう少し勉強したいという気持ちがある。生徒に勉強を教える側の教員にはなれたけど、まだまだ教わりたいことが多すぎる。もう少し生徒のままでいたい。

3月11日

 今から7年前の今日、東日本大震災があった。自分は直接的な被害は受けていないが、インフラが止まったり間接的な影響を受けた。今でも夜は蝋燭で生活していたのを思い出すし、当たり前の生活が当たり前でないことや、文明に頼りすぎていた自分が文明から見放されたときの無力さを感じていた。
 自分の身近に被害の大きかった地域に住んでいる人もいて、ふとその時の話をしてくれるので聞く。自分はそういったテレビや人から教えて貰った僅かな断片的な情報でしか判断することは出来ない。だからきっと本当はそこには自分の知らない文脈があるのだと思う。
 その場にいなかった自分は相手を完全に理解なんてできないのだから、相手の感情を分かるなんて言うことは出来ない。相手の感情を理解しようとして、それでも出来なくて、相手の感情を完全に理解なんて出来ないけど、話を聞くことなら出来る。

3月12日

 次の用事まで時間があったのでハンバーガー店に入る。これが大正解で店内にはソファーやクッションもあり、かなり寛ぐことができ、そこで本を読んだり物を書いていた。
 先日大好きな社会学者の方が素敵な日記を書いているのに影響を受け、今自分も日記を書いている。いつまで続くのかな。
 お店はオフィス街の真ん中にあって客層も30代くらいの会社終わりの女性といった感じの人が多い。自然と話も仕事の人間関係のことが多くなる。先日研究室で人間関係の悩みを抱えている友人と話をしたが、人が関われば多少にかかわらず何か問題が起きるんだなあと感じた。社会に出るにしてもアカデミックに進むにしても恐らく一番悩むであろうことは人間関係であって、自分の実力の無さとか給料が少ないとかは二の次な感じもする。つまり良い人間関係を保つことが出来れば大体の悩みは減るのでは!?それが難しいんだけど。
 隣に若い(といっても自分よりは少し歳上だと思う)カップルがやってきた。耳に入った感じ、まだ付き合い始めで社内恋愛のようである。凄く甘酸っぱい。甘酸っぱかったのは勿論レモネードのせいだけではない。

3月13日

 友人が藝大に受かる。受かった後だから言えることだが、受かると思ってた。
 彼女含めいつも周りの友人には影響を受けている。むしろ「自分」というものは無くて、周りの友人の生き方や行動にかなりの影響を受けている。悪い意味では流されているというのかもしれない。
 音楽を作るときも完璧なオリジナルなんて無くて、いつも聴いている音楽や文章、絵などの作品(インプット)があって、アウトプットされていく。
 最近になって「自分」というものは新たに作られたものではなく、色んな人から影響を少しずつ受けて形作られていくものが「自分」になっていくのではないかと考えるようになった。そういう意味では「自分」は刻々と変化していく。「類は友を呼ぶ」と言うが、私の場合は友によって類が作られていくという感じかもしれない。
 自分は周りの友人に恵まれている。自分も誰かに影響を与えられればいい。

3月14日

 朝起きていつもの習慣としている暦を読む。「ホワイトデーはきちんと返すこと。」今年貰ったバレンタインデーは母親とピアノの先生の二人だったが、この二人は毎年くれる。
 ピアノの先生には毎年チョコレート等を買って返すようにしているが、母親には何を返そうか。なんか母親相手にチョコレートを返すというのは何かむずがゆいような気持ちになる。友人や恋人やお世話になっている人には恐らく抱かない感情である。恥ずかしいので母親宛に買うのはやめて家族全員に大好きなお店のタルトを買うことにする。